踏む

通学路に色とりどりの紙吹雪が散っていて、ここで何が爆ぜてしまったのだろうと思う。

  

叔父さんになりたいんです。

わたしには兄も姉もいないし、そもそもわたしは男性でないので、逆立ちしたってわたしが「叔父さん」と呼ばれる日は来ないのだけれど。たとえば40代の、そうだな、半ばを迎えたころに、すっと通った背筋と笑い皺をもって、甥や姪を迎えられたらどんなにすてきだろう。品のある襟がよく似合うような年の取り方がしたい。産むことのないかたち、清浄なその胸板をシャツのぼたんの奥にしまいこむとき、どんな気持ちがするのだろう。

 

言いたいことなんてほんとうはなんにもないんです。

あなたの手をとってみて、それで、その手があたたかいことを確かめられたらそれでよかった。

なにも、なにも、わたしはこんなに執着しなくたってよかった、消費することのできるものを消費できるときに消費して、移り気にお気に入りの絵本をえらびとって、春になればこの部屋を置き去りにどこか遠くへ流れてゆけばよかった。

ただすこし、奥歯のふちがするどくなった気がするんです。

 

きっと捨てられないからだの、じとじとした曲線のことを愛せるようになってしまって、執着がこんなにうれしくなってしまって、やっぱりだめになるときは紙吹雪がいいなと思う。道端の雑草に、工事現場のコンクリートに、非常階段のステップに、薄紙の吹雪がぱっと散ったらきれいだろう。そうしたら、一枚だけじょうずに写真を撮ってほしい。

 

いつだってあなたの写真が撮りたくて、だけどまだ、大きな裁ちばさみのようなシャッター音がこわいのです。

紙吹雪がいつのまにか金木犀に変わっている。