2020.07.30

 雨のなか悠々と歩くきりんを見ながら、睫毛があなたと同じくらいある、と告げたら、長い睫毛でひとにらみされた。あらゆる動物のなかに恋人の影を見るけれど、きりんとか鹿とか、くびすじがすっとして、礼儀正しいまっすぐな脚をもつ草食獣がいっとう似合うような気がする。

 

 

 これは叶えるつもりの毛頭ない願望、願望というよりは衝動のような、まあとにかくそういうものの話なのですけど。

 

 子どもを産んでみたい、と、ごくたまに思うようになった。もちろんわたしは人の親になれるような器ではないのでまったくのifの話である。基本的に生殖には興味がないし、8割方地獄でできているようなこの世に新たないのちを産み落としてちゃんと守りきってやれるだけの自信もない。残念ながら仕事ができないので自分以外の人間を養えるだけの稼ぎを得る見込みもない。したがって、わたしは子どもを授かるべきではない、と考えている。
 とはいえ、彼(恋人のことをどのような代名詞で呼ぶべきか決めかねている、ひとまず便宜上「彼」としておく)を親に持った子どもはきっとしあわせに育つだろうし、うつくしいたましいのもとでうつくしいたましいが成長してゆくのを眺めていたいような気持ちはある。日頃疎ましいとしか思えないわたしの胎がどのように機能するかということに対して若干の興味もある。
 かつて母がわたしに繰り返し説いたことのひとつに「三十路になると『産まなきゃ』って思うようになるのよ」という実体験に基づく教えがあり、わたしは幼い頃からその日が来るのがひたすらにこわかった。27歳の誕生日を目前にして、たぶん、わたしはそのフェーズに差し掛かろうとしている。
 母体となりうる身体をもって生まれたことを改めて突きつけられてしまった。ずっと目を逸らして生きてきたのに。

 

 よく通っている動物園のコアラが、遠く離れた土地の動物園へ引っ越していった。国内のコアラの繁殖計画に基づいて、母となることを望まれて、運ばれていった。生後数ヵ月のころからずっとガラス越しに眺めてきた子だった。彼女らにとっては今が『産まなきゃ』の時期なのだろう。途絶えないために。殖えてゆくために。
 わたしは途絶えたくないのだろうか。途絶えてはいけないのだろうか。だれも、なんの計画も立てられないのに、ただ殖えなくてはという気持ちだけを芽生えさせられて。

 

 

 コアラ舎をあとにするとき、恋人はちいさく手を振っていた。追いかけて反対側の手をとるわたしの、わけのわからないさみしさや焦燥感をきっと見抜いていたのだろう。雨の日のきりんの眼をして、しばらく不思議そうにこちらをみつめていた。