2020.12.14

 よく冷えた夜にねむるこいびとのことを見ていたら、感情がどうしようもなく洪水になって収まらなかった。

 これはたとえば短歌甲子園のまぶしいステージから降りる五、六段の、母校の演劇にあの日のわたしたちを垣間見た六十分の、導かれたのに何も書けないまま小さなホールで修了証書を受け取って戻る十五歩の、それらのさなかに感じたのと同じ、すべてきちんと終わってゆくのだということへの予感であって、べつにあなたとわたしだから、ではない。ただしい寝息をただしいまま琥珀に閉じこめておきたいわけでもないし、わたしの起こす雪崩に巻き込まれてほしいわけでもない。俗なあこがれが脚を絡めてしまうまえに断ち切ってくれたらいいし、丁寧にほどいてくれる必要なんかない。

 どうか気ままに駆けて行って、それで、もしも行き交うことがあったなら、そのときは山深くの落ち葉からみたらしだんごの匂いがすることとか、大きな杉の木にてのひらを寄せるとぴりぴりすることとか、石段を千も上りきった先にある景色のこととか、そんな話をしてほしい。わたしはあなたと訪れた土地の名前を覚えていられない代わりに、薄く雪をまぶした煉瓦の四つ辻のことを、五メートル離れて歩いた川沿いのことを、黙って見つめた早朝の蓮やあなたと登ったり登らなかったりした山々のことを、あまねく抱きしめて笑うだろう。三千年経って、もうだれの身体も残っていなかったとしても。

 

 そんなことをぼそぼそ考えて泣きながら眠ったら具合が悪くなったので、家でほんのすこしだけ仕事をして早々に横になった(ら、あっという間によくなった)。かなしくなることに代わる特技がほしい。

 わたしが書きたいのはいつでも同じことで、くだらないなと笑い飛ばしてもらえるのを待っている。

2020.07.30

 雨のなか悠々と歩くきりんを見ながら、睫毛があなたと同じくらいある、と告げたら、長い睫毛でひとにらみされた。あらゆる動物のなかに恋人の影を見るけれど、きりんとか鹿とか、くびすじがすっとして、礼儀正しいまっすぐな脚をもつ草食獣がいっとう似合うような気がする。

 

 

 これは叶えるつもりの毛頭ない願望、願望というよりは衝動のような、まあとにかくそういうものの話なのですけど。

 

 子どもを産んでみたい、と、ごくたまに思うようになった。もちろんわたしは人の親になれるような器ではないのでまったくのifの話である。基本的に生殖には興味がないし、8割方地獄でできているようなこの世に新たないのちを産み落としてちゃんと守りきってやれるだけの自信もない。残念ながら仕事ができないので自分以外の人間を養えるだけの稼ぎを得る見込みもない。したがって、わたしは子どもを授かるべきではない、と考えている。
 とはいえ、彼(恋人のことをどのような代名詞で呼ぶべきか決めかねている、ひとまず便宜上「彼」としておく)を親に持った子どもはきっとしあわせに育つだろうし、うつくしいたましいのもとでうつくしいたましいが成長してゆくのを眺めていたいような気持ちはある。日頃疎ましいとしか思えないわたしの胎がどのように機能するかということに対して若干の興味もある。
 かつて母がわたしに繰り返し説いたことのひとつに「三十路になると『産まなきゃ』って思うようになるのよ」という実体験に基づく教えがあり、わたしは幼い頃からその日が来るのがひたすらにこわかった。27歳の誕生日を目前にして、たぶん、わたしはそのフェーズに差し掛かろうとしている。
 母体となりうる身体をもって生まれたことを改めて突きつけられてしまった。ずっと目を逸らして生きてきたのに。

 

 よく通っている動物園のコアラが、遠く離れた土地の動物園へ引っ越していった。国内のコアラの繁殖計画に基づいて、母となることを望まれて、運ばれていった。生後数ヵ月のころからずっとガラス越しに眺めてきた子だった。彼女らにとっては今が『産まなきゃ』の時期なのだろう。途絶えないために。殖えてゆくために。
 わたしは途絶えたくないのだろうか。途絶えてはいけないのだろうか。だれも、なんの計画も立てられないのに、ただ殖えなくてはという気持ちだけを芽生えさせられて。

 

 

 コアラ舎をあとにするとき、恋人はちいさく手を振っていた。追いかけて反対側の手をとるわたしの、わけのわからないさみしさや焦燥感をきっと見抜いていたのだろう。雨の日のきりんの眼をして、しばらく不思議そうにこちらをみつめていた。

ぴかぴか

 嫉妬はひらめくのだと最近知った。
 たとえば毎朝パンの焼ける匂いで目が覚めるという同僚に、山じゅうに張り巡らされた樹の根を踏まずに歩ける恋人に、彼を救うことのできるすべらかな幹に、真っ暗な高速道路のいっしゅんの静寂に。目の前がぴかっとする。すっかり眩んでいつの間にか肩で息をしている。

 

 たとえばほんとうはもうそんなひかるところへ行かないでほしいし、そうでなければどこへでも連れて行ってほしい。わたしまだ15階の女子トイレでべそをかいて動けないのに。ぴかぴか。こんなにわかりやすく書かれたことすらまともにできなくて残業ばっかりしていると目の前の男が鼻で笑ってくるので一瞬でおなかの底が熱くなる。こんなふうに煮えてしまうためのからだでないのに。ままならない。あたまがわるい

 何がそんなに足りないのかよくわからないけどわかったところで手に入らないんでしょとおもう、そのよくわからないけど手に入らないものばっかりが息づいていて、11月も終わるのに朝がぜんぜんつめたくなってくれない。満員電車でべこべこに押されている。みんなじょうずに歩けていいな。ぴかぴかぴか。

 

 でも、べつにだからどうしたいってわけでもなくて、ただ途方もなく暴力的な光りかたをわたしの目は覚えようとしている。ぴかぴかしたがる両の目をあしたは秘蔵のハーゲンダッツで抑えるつもり。

たまご

ひさびさに文章を書きたくなってエディタを開いたけれど、ねむりたい気持ちと恋人に会ってにこにこしてあったかいお腹に抱きつきたい気持ち以外のことがよくわからないのでやめた。よくわからないのであんまりおいしくないおかゆができてしまったけれどよくわからないのでちゃんと食べた。そもそもこの時間におかゆをつくる必要はまるでなかった。よくわからなくなっている。タイトルはおかゆにたまごを入れたくておかゆをつくったのにすっかり入れ忘れてかなしいきもちへの追悼です。

へたくそ

川沿いをあるく。角をひとつ曲がるまでのあいだだけすこし走るようなふりをして、あとはずっと歩いている。風がつめたくてずっとここで吹かれていたくなるけれど、わたしがいるのはやさしい詩のなかではないので、すぐに寒くなってしまって、また30秒だけ走るふりをする。

 

ちいさな橋のすみっこに座りこんでこれを書いている。夜に、外で、地べたへ座りこめるようになってしまった。ひりひり尖りっぱなしの一部を除いて(、あるいはその一部のために)わたしの神経は死んだのかもとおもう。コンクリートで舗装されたちいさな川はわたしが動いているとすっかり黙りこくってうんともすんとも言わないくせに、足を止めてほんのすこし身を乗り出すと途端にさわさわと流れ出す。それをじっと息をひそめてやり過ごすときのおおきなけものに喩えるのは、たぶんだめなほうの感傷だと思う。時折ひかりが走ってゆくのが見える。

 

いま、向こう岸に川へおりてゆくための階段があるのが見えて、でもあの柵みたいな扉を勝手に開けて(それとも乗り越えて?)下へゆくことは、きっといけないことだから、しない。あのこの日本語がぼろぼろしているの、ほんとは気になるけど言わないんです。足の甲までしかない浅瀬にさっきから3匹くらい泳いでいる。

 

もういいかげん寒いので帰ろうか、でもまだ名残惜しいし、明日は朝寝坊できるしな、と思って川と家をむすぶ道を5往復してしまった。雲がずいぶんかっこいいのでとりあえず帰ろうと思います。おわり。

はだしと虹、これからのこと

夏に住み始めた部屋は、朝日がよく射して、床が白くて、ざりざりしたはだしがなおのこといびつに見える。

今生のわたしが唯一わりと自信を持っているからだのパーツが手の爪なんですけど(それなりに大きさが揃っていてかたちもまあまあ)、足の爪はてんでだめで、5mmくらいしかなかったりする。そのちっちゃい爪にそろりそろりと赤いペディキュアを塗りながら、ぜんぶおままごとみたい、と思う。隣家のお姉さんに「乾くと剥がせるんだよ」と囁かれながら塗ってもらったピンクのマニキュアの、ざらざらの安いラメのこと。床がずいぶんと白く見える。

 

わたしは大学院の博士前期課程の2年生で、修士論文を出したら入試を受けて後期課程に進学するつもりだったのだけれど、やめた。大学にずっと残って研究をしたいと思っていたのをやめて、でもせめて後期課程の3年間は(たとえ博論が出せなくとも)勉強がしたいと思っていたのもやめて、就職することにした。

学部生のころも、大学院に入ってからも、進学するつもりでいたので就職活動を一切やったことがなくて、まさか人生初の就活が12月に始まるとは思ってもみなかった。就活のアドバイスをしてくれるというサービスに登録してみたけれど、「希望条件などを確認するため電話面談をします、本日中に希望日程についてご返信をお願いします」というメールに焦って返信をしたきり、なんの音沙汰もない。明日のお昼には第三希望の3時間が終わる。

 

あきらめたの、と何回も聞かれる。学部のとき、教員採用試験を受けずに進学して研究をしたい、と言ったときも、ついこのあいだ、就職を目指すことにしました、と言ったときも。学校の先生になるのはあきらめたのね。大学で研究者になると思ってた、びっくり、あきらめちゃったの。

ちがうんです、ほかにやりたいことができて、考えが変わって、それで。なんにもあきらめずにいるために今はこっちを選ぶことにしたんです。胃のうらをそわそわさせながら答えるたび、赤玉サワーが、カシスソーダが、赤ワインが、てのひらに映ってたぷんと揺れる。

あきらめないために、強気なことをいくつも、いくつも言ってきた。自己暗示がじょうずなので、いつだって退路を断って、前に進むしかないようにして、それでなんとかかんとか暮らしてきた。わたしにだってできる、だいじょうぶ、だって強い星のもとに生まれたから。わたしが生まれる前に亡くなったおばあちゃんは、亡くなったときにお月さまの名前をもらったから、月のきれいな夜にはなんだってうまくできる。大きな決断をした日の月はいつでもとびきりうつくしかった。

だから初めてだいじょうぶじゃなくなったとき、大事なひとの首に手をかけてしまったみたいでこわかった。

 

何はなくともひとにだけは恵まれた生だ、と心から思うくせに、「ひとりでもだいじょうぶ」になることばかりを考えて、ひとりでできることなんてなんにもないじゃんと思って、泣いた。わたしなんかがしあわせになろうだなんて、ひとを巻き込んでしあわせになろうだなんておこがましくて、わたしはそのおこがましさをいつでも自覚し、恥じ、そこから遠ざかれるように生きてゆかなくてはならなくて、だけどしあわせになりたくて、泣く。泣くことのおこがましさをまた恥じて、泣いていることがばかばかしいような気がして、もうどうしていいかわからなくなって、笑ってしまう。今だってどうしていいかわからないけれど、まあでも、最終的に笑ってしまえればそれでいいかなという気もする。

 

 

いつだったか、恋人とドライブに出かけた帰り道、助手席から二重の虹を見たことがある。虹の片鱗ですらほとんど見たことがなかったのに、突然ぽんと二重のくっきりした虹が出てきて、よくもまあ奇跡のようなうれしいことがたくさん起こるものだとおもう。あれからうれしいときの気持ちはぜんぶ二重の虹になってしまった。虹、人生にたくさんほしい、これから何度でも虹を見ましょうと強くつよく思う。

わたしの人生はとびきりすばらしいし、これからもっとすばらしくなるにちがいない。だって強い星のもとに生まれたのだから。

 

 

それから余談なのだけれど、就活支援サービスの人はこちらからメールを送ったらすぐに対応してくれた。返事が来ないときはこちらから(できるだけ気軽に、気楽に!)連絡をする、という力は今のアルバイト先で身につけた。できるようになったことも、ちょっとだけど、ちゃんとあってうれしい。

おいしいものの話

●おかあさんのつくるかぼちゃの煮物

 

材料:

・かぼちゃ…適量

・お砂糖…大さじ3くらい

・お醤油…たぶんお砂糖と同じくらい

・昆布だし…気が向いたらちょびっと

 

①お湯を少なめに沸かす(かぼちゃの時はだしを入れない)

②お砂糖とお醤油で煮汁をつくる

③かぼちゃを入れて落とし蓋をする

④中火で10分くらい煮込んで完成!

 

★こつ

・味付けはお味見をしながら決めるのでてきとう

・煮始めるときの水分量はひたひたよりやや少ない、かぼちゃの頭がちょっと出るくらい

・煮汁がちょっと甘め・濃いめのほうがおいしい

 

★作ってみた感想

・かぼちゃめっちゃ煮崩れる

・お料理初心者が「味付けはてきとう」を鵜呑みにしてはいけない

・おいしいかぼちゃの煮物が食べたいときはかぼちゃ持参で実家に帰るのがよい